Golf My Wonderland

ゴルフエッセイ~見たこと読んだこと気づいたこと~気ままに書いています。

映画「グレイテスト・ゲーム」と「実話」について 〔Part 2〕

❖ 7月23日の夜、最終日の「全英オープン」は我々を眠らせなかった。松山英樹の活躍はもう一歩というところだったが、日本人として活躍してくれた姿に拍手を送りたい。前回、映画「グレイテスト・ゲーム」について記事にしたが、前回に引き続き書いてみよう。ボビー・ジョウンズが登場する前、アメリカ・ゴルフ界の一大転機をもたらした主役「フランシス・ウィメット」というアメリカのアマチュア・ゴルファーの1913年の実話を映画化したのが「グレーテスト・ゲーム」である。

❖ 「全米オープン」という晴れ舞台で、無名のアマチュア・ゴルファーがスーパースター「ハリー・バードン」(1913年時点で「全英オープン」5回優勝、後にもう1回)と名手「テッド・レイ」を迎え撃った実話は、全米ゴルフ界に自信と勇気を与え、映画はその事実を忠実に描いてゴルフファンを虜にする。

❖ さて、最終日まで3人は決着がつかず、翌日プレイオフとなる。3人は雨の中をプレイ開始する。この辺りの状況を、かの有名な英国のゴルフ評論家バーナード・ダーウィン回顧録にみえる。彼は偶然プレイオフの日に観戦した見聞記を、「ミスター・ウィメット、歴史をつくる」と題して記事に残している。彼はチャールズ・ダーウィンの孫で弁護士、ゴルフ好きが高じて高名なゴルフ評論家となった。書籍も37冊も出版、英国のゴルフ評論家として大きな影響力を持つ人だった。

❖ 回想録には「3人とも順調な滑り出で波乱もなく・・・前半をそれぞれ38のスコアで終わった」と。スタート時点では昨日に続き雨模様で、後半に入りようやく上がり、3人は黙々とプレイをつづけた。「インの10番は、湖水の島をグリーンとしたショートホールで、3人とも見事に一打で乗せたが、グリーンが酷く湿っていたため、バードンとレイは不覚にも3パットし、これを2パットでおさめたウィメットが始めてリードした。そしてこれがこのプレイオフのターニング・ポイントであった」と。

❖ 結果はウィメット72、バードン77、レイ78で終わり、ウィメットの圧勝だった。バードンは後年自伝の中で「わたしはレイを破れば優勝できると思って、ずっとレイのプレイばかり見て、この青年には目もくれなかった。ところが終わりに近づくころになって、レイよりもこの青年が手ごわいのに気づいて、矛先を転じたが、時すでに遅かった・・・」と。

❖ このドラマのもう一つの立役者、ウィメットのキャディーを務めた10歳のエディ・ロワリーは驚くべき才能を発揮する。上述ダーウィンの記述では「スタートはくじ引きでウィメットがオナーになった。1番ホールの両側を垣のごとく埋めたギャラリーを前に・・・さすがのウィメットもこのときばかりは緊張のため蒼白となった。するとそのとき10歳の幼いキャディーのエディ・ロワリーが、ドライバーをウィメットにわたしながら、世にもひたむきな顔をして“しっかり!目をボールからはなさないで!”といった。青年は黙ってうなずいた。」と書いている。

❖ プレイ中ウィメットは、この少年から幾度も冷静になる言葉をかけられている。後年綴ったウィメットの回顧録にも「エディは終始私に、ボールから目をはなすなといいつづけた。そして焦らずにゆっくり時間をかけるよう注意してくれた。また、いろいろな方法で私を激励した」と書いている。この様子を映画は見事に再現してくれている。

❖エディ・ロワリー少年はその後自動車販売業で成功し、ゴルフ・トーナメントのスポンサーとなり、米国のゴルフ発展に貢献した。なお、USGAの役員にもなったそうである。また、ウィメットの優勝は全米において「英国中心」のゴルフから「米国中心」のゴルフへ舵を切らせたエポックな出来事となり、大きな影響力を果たしたのである。

❖ ウィメットはその後生涯アマチュア・ゴルファーとして過ごし、ゴルフの高潔な精神を貫き通した。ゴルフの総本山英国の「R&A」のキャプテンに迎えられるという事実からもうかがえる。球聖ボビー・ジョーンズが登場する10年も前に、すでにアマチュア・ゴルファーとして全米に轟く清廉な人が活躍していたことを、我々は改めて覚えておきたいものである。(了)

※ 参考資料:摂津茂和コレクション「ゴルフ異聞記」より
※ 「R&A」とはRoyal Ancient Golf Club of St.Andrewsの略。英国ゴルフ協会の役割を果たすと同時にゴルフ発祥地にある競技団体でもある。現在世界のゴルフルールの改定はR&Aと全米ゴルフ協会(USGA)で行われている。