Golf My Wonderland

ゴルフエッセイ~見たこと読んだこと気づいたこと~気ままに書いています。

昔スコットランドに杉原輝雄プロの“そっくりさん”がいたという


           写真はスコットランドのリンクス風景

スコットランドに、杉原輝雄プロの“そっくりさん”がいたという!?

❖ 当ブログの前々回、杉原輝雄プロのゴルフ箴言集の触りを紹介したが、夏坂健の書籍を読んでいたら、表題の人物を発見した経緯を書いていてビックリした。こんな書き方だ。「世の中には『そっくりさん』が3人いるといわれるが、時代こそ違え、まるで一卵性双生児と思えるほど酷似する人物が大阪とスコットランドに出現すたことは、一体いかなる運命の妙なのであろうか。本当に不思議でならない。」

❖ ベン、その名は「練習の虫」と呼ばれた名物プロ、ベン・セーヤーズという人である1880年ごろから活躍した人物だ。夏坂健著「されどゴルフ」から紹介しよう。この人はクラブ作りの世界で名を成した人、現在でもクラブ売買がネット上に登場する。プレーの方は全英オープン出場の常連だったようで、1880年とその翌年に3位入賞、その後7位に入ったこともあるというから、プレーヤーとしても並々ならぬ技を身に付けていた人物である。

❖ ベンの身長は5フート4インチ、162センチで杉原と同じ。体重は58キロでこれまた両者同じ。いわゆるプロの世界では非力を克服せねばならない課題も同じであった。ベン曰く「ゴルフではグリーンの全景が見わたせる場所から本当のゲームが始まるのだ。そしてパッティング、勝てるチャンスはここにある。」

❖ ベンに会いたければ、ためらわず練習グリーンに行ってみるがよい。景色の一部みたいに立ちすくんで黙ったボールを弾いているのが彼だ」とゴルフ史家D・レイは書いているという。実際ベンは終日アプローチとパットの練習に没頭し、パターは肌身離さず携帯していた。残された写真からは、パターでは杉原輝雄のスタイルと、そしてドライバーのフォームも、長尺を使っていた点も酷似しているというから驚かずにはいられない。

❖ ベンの生き方は杉原の言霊に通ずる。「凡人にできることは努力しかない」「何事も気迫を込めて立ち向かえ」「練習は裏切らない」「ゴルフに引退はなし 死ぬまで現役」。杉原の言葉通り、ベンは生き抜いた。少しでも距離を稼ぐために長尺ドライバーを開発し、46インチまで伸ばしものにする。杉原の先にベンがいたのである。

❖ ベンは競技ゴルフを引退するとクラブづくりに専念する。そして当時として始めて、ヘッドが肉厚の大きなウッドクラブを作り、革命的なヘッドを世に送り出した。実は我々が現在使っている肉厚のヘッドはベンの考案したものが原型になっている。1890年頃から傑作なドライバーを作り出し、1925年頃にはクラブ作りの名人と呼ばれるようになっていた。

❖ ベンはクラブ作りで高収入を得るようになってからも練習に明け暮れた。現役を離れた彼の腕前は少しも衰えず、こういうエピソードが残っている。1905年当時飛ぶ鳥を落とす勢いのジェームス・ブレードとエキジェビション・マッチを行ない、見事最小パット数の記録を残し勝利したという。この年はジェームス・ブレードが全英オープンを制した年でもある。(ジェームスは近代ゴルフ3巨人の1人、全英オープンを5勝している。)

❖ ベンは50歳を過ぎてもパットは「芸術的に美しい」と称賛され、46インチの長尺ドラーバーで大きなボールを飛ばしたいたというから、その執念たるや杉原を見る思いがする。夏坂健は最後にこう記している。「なにからないまでそっくりすぎて、いまふうに言えば杉原プロの「前世」について考えてしまうほど二人には共通点が多いのである。こんな不思議ってあるだろうか」と。

参考資料:「されどゴルフ」夏坂健著 幻冬舎文庫(1997年刊)/
杉原輝雄ゴルフ上達100の言葉」書斎のゴルフ特別編集号 日本経済新聞出版社
(2010年6月15日刊)/ほか  
写真:日本経済新聞2018.7.31号 「ゴルフの原点に触れる旅」山口信吾記事より





今年の全英オープン会場とアメリカゴルフ界との深い繋がり!

今年の「全英オープン」会場の“カーヌスティ・ゴルフ・リンクス”はアメリカ・ゴルフ界の基礎づくりに 貢献!

❖ 今年の全英オープンは終わった。イタリアのフランチェスコ・モリナリが優勝で幕を閉じた。7月23日の朝、目を擦りながらこのブログを書いている。成績20位以内にアメリカ勢が11人いる。なかでも大会を最も面白くしてくれた選手が、タイガー・ウッズジョーダン・スピース、サンダー・ショーフェレ、ザック・ジョンソンなどアメリカ勢だったことも大会記憶に残るだろう。

❖ 大会の余韻が残る時に、カヌースティ・G・Lとアメリカのゴルフの繋がりについて触れておきたい。それは何といってもイギリスで最も難しいコースといわれるこのゴルフ場、特に18番ホールは魔物が住んでいるといわれる。魔物の逸話は1999年の全英オープンでフランスのジャン・ヴァン・デ・ヴェルデが受けた過酷な仕打ちは歴史に残る逸話であった。今年のオープン中継でも解説者が何度も触れられていたからご存知の方の多いと思う。

❖ カヌ―スティ・G・Lは16世紀にすでにプレーされていた記録が残っているから誠に古い。時代が経過して、あの有名なトム・モリスの師匠であるアラン・ロバートソンが1840年頃、最初の10ホールを造ったというから大きく手を加えたのであろう。そして約30年後弟子のトム・モリスが18ホールに拡大したという。またその半世紀後、全英オープン優勝5回のジェームス・ブレードが改造して、現在の難コースに出来上がったようだ。本当に歴史あるゴルフ場である。

❖ ところで「ゴルフの聖地」といえばセント・アンドリュース、ではカヌースティは何と言われているか。大塚和徳著「世界ゴルフ見聞録」によると、「ゴルフ宣教師の故郷」というらしい。1776年はアメリカ独立宣言、そして南北戦争は1861年から65年まで。この頃のアメリカの社会には、世界の多くの移民によってさまざまな分野に文化の栄える環境が出来ていた時代、ゴルフ場が各州で作れ、多くのゴルファーが生れていった創成期のアメリカのゴルフ界はある意味で活気が生まれて行った時代であった。

❖ スコットランドのゴルフプレーヤーがアメリカを目指すごとが憧れの時代でもあった。南北戦争終了後15年ほどにスコットランドのプロゴルファーがアメリカの地を踏んでいる。19世紀末から20世紀初頭にかけて300人を超えるゴルファーが海を渡り、各地に飛んで指導して行った。すべての州で「チャンピオンはカヌースティ出身者」と言われたほどであったという。アメリカのゴルフ界の基礎はスコットランド出身者によって基礎が作ったようだ。

❖ ゴルフ界初のグランドスラムを達成したボビー・ジョーンズはその名著「ダウン・ザ・フェアウェイ」の中にこう記している。彼がゴルフに夢中になりだしたころ、「わがゴルフ人生において、スチュアート・メイドンがスコットランドからやってきて、イースト・レイクのクラブ・プロになったことほど幸運はなかった」と。イーストレイク・ゴルフ場はボビー・ジョーンズのホームコースだ。こうも書いている。「カヌースティはこれまでに都合5人のプロをイースト・レイク・クラブに送ってくれている。」

❖ カヌースティが「ゴルフ宣教師の故郷」という言われる所以が分かろうというもの。この地では新大陸への憧れが大きな夢だったようで、10番ホールのニックネームは俗称「サウス・アメリカ」と言われている。新天地を夢見た若者が出発前夜の送別会で酔い、10番グリーンの脇で眠ってしまい、翌日のアメリカ行き客船に乗り遅れ、夢は消え失せてしまったという。その逸話を記しているのだ。

❖ こう見てくるとアメリカのゴルフ界とカヌースティ・G・Lは、歴史的なつながりで結ばれていることがわかる。今年の全英オープンアメリカのゴルファーが大活躍した。カヌースティの歴史に刻まれたアメリカとのつながりを思う時、カヌースティに住む市民たちの喜びは、我々日本人には想像できない深いものがあるに違いないと感じている。


参考資料 (1)「世界ゴルフ見聞録」大塚和徳著/日本経済新聞社出版社/2008年刊 (2)「ダウン・ザ・フェアウェイ」ボビー・ジョーンズ(菊谷匡祐訳)GD社/2011年刊 (3)なお、写真はテレビ朝日「ジ・オープン」番組中継より





*杉原輝雄、ゴルフで鍛えた勝負師の人生訓に学ぶ 《 Part 2 》

杉原輝雄、ゴルフで鍛えた勝負師の人生訓に学ぶ 
《 Part 2 》

❖ 前回は、6月生まれのプロゴルファー杉原輝雄の「究極の言葉」(雑誌「書斎ゴルフ」の特別編集号(2010年6月15日発行)よりピックアップして4つほど紹介したが、今回はその続きを書くことにする。彼の言葉を人生に置き換えて読んでもらうと、その真価が一層高まるものと思われる。


❖ 5つ=勝利に謙虚になれ〜100点で勝った試合などない。ラッキーばかりで、それを埋めるには練習や。勝ったのではなく、勝てたんや〜人間は、何かしらいつも何か足りんと飢餓感を持っていないとやっていけんもんですよ。それにはゴルフに対して謙虚になっていなければいかん。そうしなければ、もっとや!、ワンモアや!という気持ちが起きてこんでしょう。勝利した試合を分析して次へのステップをと、前向きにならんといかんわけです。

❖ 6つ=最終ホールが明日への希望の道〜最終ホールはプロに取って明日への弾みやが、アマにとっては“壁への挑戦”なんや〜ラウンドで重要なホールは、1番と18番と答えます。この2つのホールはその日のスコアを左右するほどの影響力を持っているからです。18番は目の前で起こることが精神的な重圧も掛かるから、それを克服せにゃあかんという意味で大切なホールなんです。


❖ 7つ=勝負に強くなるには自分を騙せ〜勝負強い人間は自分を楽にさせる抱負を知っているもんや。試合で追いかける側と追いかけられる側にとって、心理的負担の大きいのはやはり後者です。追いかけられる側に、その不利を軽減する策があるとすれば、相手のミスに絶対付き合ってはならんという鉄則です。緊迫した場面では誰もが苦しい。そんな時気持ちを楽に持っていくよう自分を騙してやらなければならんのが一番大切なんやろな、と。

❖ 8つ=諦めの悪さが根性に繋がる〜未練がましく諦めが悪い性格でええ。だからこそ今も現役でいられんや。優勝してマスコミが自分のことを取り上げてくれるのは気分がいいもの、プロゴルファーでも数少ない選手しかできん優越感にも浸れる。だからできるだけ長くそうなっていたいと思う。そのためにも今毎日、過酷な加圧トレーニングを行なっている。未練がかしく今も頑張っていられるんやと思います。

❖ 9つ=「ありがとうさん」で、楽しくやれる〜感謝の気持ちを持てば、前向きに生きていけるんや。何かをやろうとしたとき、やらせてもらったと感謝の気持ちを持てば気分が良くなって、辛いことでも楽しくなります。ボクは常に「ありがとうさん」と感謝の気持ちを持つようにしています。それを忘れないためにも、ご先祖さまに感謝しています。自分が地球上に存在して楽しい人生を送らせてもらっている。それはご先祖様がいたからです。

❖ 以上がこの雑誌「書斎ゴルフ〜特別編集号」から拾った9つの「ゴルフと人生〜究極の言葉」である。この雑誌には100も言葉が載っている。もちろんゴルフの技術論もプレーの心得も含まれている。雑誌発行が2010年6月だから、杉原輝雄は70歳を過ぎてもまだ現役で活躍していたころである。

❖ 亡くなったのはその1年と6ヶ月後の2011年12月だった。プロゴルファーとしてこれほどゴルフというスポーツに一生をかけて立ち向かい、ゴルフを極め、人生をも極めたプロもそんなにいないのではないか、とつくづく思っている。また教えられるところが余りにも多い。ゴルファーのみなさんもこの雑誌を探して熟読することを勧めたい。

❖ 6月生まれのゴルファーとして杉原輝雄にスポットをあてて、月を跨いで紹介しましたが、当雑誌の発行がもう8年前で、なかなか手に入り難い・・・。書籍になれば、より多くのゴルファーに親しんでいただけるのではないかと密かに書籍化を期待している一人である。新宝塚カントリークラブ内に「杉原輝雄記念館」があり、彼の200点にのぼる遺品が展示されているという。いつか訪問したいと思っている。(了)





杉原輝雄、ゴルフで鍛えた勝負師の人生訓に学ぶ 《 Part 1 》

杉原輝雄、ゴルフで鍛えた勝負師の人生訓に学ぶ ‼ 《Part1》

❖ 梅雨最中の6月生まれのプロゴルファーは意外に少ないように思う。さまざまな資料を調べてみると、外国勢ではゴルフの歴史に足跡を記すトム・モリス(シニア)、PGAツア通算51勝、世界ゴルフ世界ゴルフ殿堂入りしているビリー・キャスパー、グランドスラム達成に後一勝の現役フィル・ミケルソンなど、歴史に名を遺すプロゴルファーを上げることができる。

❖ 日本のプロゴルフ界では杉原輝雄がいる。1937年6月14日生まれ、2011年12月に74歳で亡くなるまで約50年にわたりプロ生活を送り、通算勝利数63勝の記録を残している。68歳10ヶ月での予選通過は日本ゴルフツアー最年長記録である。米サム・スニードの持つ67歳2ヶ月を上回る大記録の保持者でもある。


❖ その杉原輝雄がゴルフを通じて作り上げた人間像を振り返ってみると、我々一般のゴルファーは勿論のこと、人生の来し方行く末を考える時、教えられることが非常に多くある。人生訓には孔子をはじめ歴史上の人物の名著から教わることが多いが、ゴルフを通じて人間を鍛え、ゴルフの勝負師として一生を送った彼の片言隻句は身に染みて響いてくる。

❖ 雑誌「書斎ゴルフ」の特別編集号(2010年6月15日発行)は“ゴルフ上達:杉原輝雄100の言葉”というタイトルで、己に克つ心・技・体の言葉を載せている。


写真:2000年の太平洋マスターズゴルフでプレーする杉原輝雄さん=静岡・太平洋クラブ御殿場コース(2000年11月09日【時事通信社

❖ 一読して「ゴルフと人生の究極の言葉」を彼自身から聞いている気持ちになった。プロゴルファー杉原輝雄は人生においても一流の人物であったことを伝えている。

❖ 杉原輝雄の言葉を拾ってみよう。「究極の言葉10」「心の言葉29」の中から、ゴルフにチャレンジする姿勢から人物像が浮かび上がってくる言葉は、我々を引き付けずにはおかない。

❖ 1つ=「ゴルフも人生も七転び八起き」〜ゴルフは人生と一緒。失敗しても次ぎから頑張ればええんや。ゴルフにはミスが付き物。だからミスしてもくよくよしない。次のショットで頑張ることや。それがゴルフの素晴らしいところだし、やりがいのあるところでもあります。

❖ 2つ=勝負の時点に「諦める」の文字はない〜一生懸命にならなぁ損やんか。粘らなあかん。諦めたら自分が損するだけやないか。一緒に合格したプロが次々に所属プロとしてスカウトされ残ったのは僕だけ。五角形のスイングが不格好ということで・・・。そりゃショックで情けのうて。しかし、今まで以上に曲がらないスイングの取得に励んだ。あのとき諦めてたら、今のボクはありません。

❖ 3つ=絶えず挑戦し、小さくまとまるな〜安全策では上達しない。思い切った挑戦が自分を成長させるんや。安全策ばかり高じていてはどんどん自分のゴルフが小さくなってしまって、それでまとまってしまうと、その殻を抜け出すのは凄く難しくなるもんです。だから普段からチャレンジしていく。チャレンジして反省して、何が足りんのか、何が必要なんかをきっちりと見極めることです。

❖ 4つ=人には変則、自分には基本〜基本とはその人の体力や癖にあったものを言うんや。人からの借り物は真の基本やない。ボクのは変則的ノーコックの五角形スイングですが、これはボクにあった基本だと思っています。自分に合うものを取捨選択しながら取り入れて、練習で体感しながらつくりあげていくしかないんです。

 上述のように、杉原輝雄はゴルフの基本的なことを語っているが、“ゴルフ”という言葉を“人生”という言葉に置き換えてもそのまま通用する内容ではないかか。杉原輝雄の顔の皺と目の光は、ゴルフを真剣に立ち向かうことにより会得した揺ぎ無い人物像といって差し支えないと思う。この続くは次回に・・・。(了)





宮里藍のアンバサダー就任とサントリーレディスの盛り上がり

宮里藍のアンバサダー就任とサントリー・レディス・オープンの盛り上がり

❖ 宮里藍の影響力は本当に大きなものだ、とサントリーレディスオープンを見ていて実感した。彼女がアンバサダーとなった当大会は、大げさな言い方ではあるが、彼女の一挙手一投足がこれからの女子ゴルフ界に波紋を描いて行くような、そんな予感をさせる大会になった。

❖ 宮里藍の冠の付いた第1回のサントリーレディスオープンは、彼女の影響力を最初から見せ付けたといっていい。1つはベテランも新人もごぞって競い合い、素晴らしい成績を残したことであろう。優勝した成田美鈴々の16アンダーも凄いが、プレーオフ敗れた宮里の後輩、有村智恵も16アンダー。ベストテンの選手も12アンダー以上という優れた成績だった。

❖ アンバサダー宮里藍の大会に臨む姿勢は、当大会から世界に羽ばたく選手を送り出すことだ。その意味で、上位入賞の永井花奈、小祝さくら、比嘉真美子、20位以内にもアマチュア安田祐香(18才)、柏原明日架、権藤可恋、深海美優、森田遥など若手がひしめく戦いだった。やはり宮里藍という大きな存在が呼び起こした結果であると思う。

❖ こうした若手の活躍の刺激もあり、ベテラン勢の活躍も見物で、上位岡山絵里、笠りつ子金田久美子大山志保など大会を沸かせた。また今大会は各選手のプレー内容も見どころが多く、優勝のダークホースだった比嘉真美子が4日間素晴らしいプレーを見せ、特にあのドライバーのロングヒットは、渡辺彩香や森田美香子以来ともいえる比嘉のヒットは素晴らしい。今回は17番のショートホールで、まさかの池ポチャで後退、ゴルフの一打の重みを痛感させられたプレーであった。

❖ 各選手が押しなべて評価する宮里藍の姿は、世界で活躍した実績はもちろんのこと、その人柄、誰にでも平等に接する態度など、彼女が持っている人間的評価、そしてこれまで10数年日本の女子ゴルフ界をもけん引してきた実績、その大きさは計り知れない。元LPGA会長の樋口久子でさえ、2000年以降女子プロ界が注目され、活発な活動ができているのは彼女のお蔭だといっている。

❖ 現在の日本のゴルフ界は、女子プロトーナメントの隆盛で人気を維持しているようなもので、男子プロトーナメントが低迷しているだけにその活躍を評価したい。宮里藍サントリーレディスオープンという1つのトーナメントへの協力だが、今後女子プロトーナメント全体に影響力を発揮して行くことができれば、ますます世界で活躍する人材が生れてくるのではないか。そんな期待に胸が膨らむ。宮里藍には大いに期待したい。





アベレージゴルファーにとって、 ゴルフクラブ14本は適正か!

アベレージゴルファーにとって、ゴルフクラブ14本は適正か!

❖ ゴルフシーズン真っ只中、天候に恵まれた日に緑の芝生を意気揚々とプレーする気持ちは誠にすがすがしく楽しいものだ。しかし帰る時になって、14本の入ったキャディバックを担ぐと、これが何と重いことか・・・年を取ると余計重量感を覚える。さて今日のプレーで使わなかったクラブはどれだっけ、と指折り数えてみると、あのクラブこのクラブとその多さにビックリする。

❖ アベレージゴルファーにとって、14本ものクラブをそろえてプレーせねばならないのか、とついつい考えてしまう。そういえば、かの中部銀次郎はシングルクラスの腕前になるまでは、ハーフセットで十分だ、と言っていたことを思い出す。確かに14本を1つ1つ吟味してみると、シングルプレーヤーほどの実力者でない限り、番手の飛距離をしっかり身に付いていない。

❖ そもそもクラブセットが14本と決まったのはどんな経緯か? 資料をひも解いてみると、いくつかの節があるようで、1つは1934〜5年頃、英・全米アマを連覇したローソン・リトルは31本のクラブを使用していた。これに対してキャディがクレームを発し、本数制限のきっかけとなったという節、もう一つは、1936年パインバレーでウォーカーカップが開催された時、聖球ボビー・ジョーンズとイギリス代表トニー・トーランスがクラブ本数制限について会話した。

❖ B・ジョーンズがグランドスラム達成時に使ったクラブは16本、WカップでのT・トーランスは12本以上使ったことはないといい、その間を取って14本をUSGA会長に話したことが元となったという節。結局USGAは1938年、R&Aは1939年にそれぞれ14本という規定を設けた(注1)。恐らくこの1930年代のアメリカ・イギリスのゴルフ界では、クラブの本数制限について大きな話題になっていたのではなかろうか。

❖ クラブセット14本の制限規定の経緯は以上のようであるが、話は元に戻って、アベレージゴルファーには14本が必要かという疑問。われわれ実際のプレーでは恐らく10本程度のクラブを使っているに過ぎないのではないだろうか。14本あるからという訳で、練習場へ行けばドライバーからサンドウェッジまで順番に打って行くが、もしハーフセットの7本であればどうするか。

❖ 恐らく、4番ウッドや7番アイアン、ピッチングウェッジなどは、その番手の自分の距離以外に短めの距離のスイングを練習するであろう。7番アイアンが150ヤード前後なら140ヤード、130ヤードのショットの練習、ピッチングなら100ヤード以内の距離すべてを、サンドウェッジはバンカーのみに限定するとか・・・。

❖ 1つのクラブで数通りの打ち方をできるようになると、そのクラブの特徴が分かってくるのではないか。14本よりハーフセットの方がプレーとクラブのバランスが理解でき、トータルではスコアメイクにつながるような気がするがどうであろうか。不思議なもので人間は14本と制限されると、その範囲以内のクラブすべてを使って頑張ろうとする。この“意地”みたいなものが、かえってゴルフ上達にブレークを掛けているのではないか、などと思ったりする。

❖ 作曲家の神津善行さんが最初にフルセットを買って帰った時、ゴルフをされないお母上に「なんで同じ物をこんなに何本も買ってきたの」と叱られた、というエピソードを鈴木康之氏が「決め間違えた罪な14本」(注2)というエッセイ―に書いている。このセリフを俯瞰的に受け止めてみると、神の言葉のように聴こえるのは私だけであろうか。


※(注1)参考資料1:「世界ゴルフ見聞録」大塚和徳著/日本経済新聞社 2008年発行
※(注2)参考資料2:「脱俗のゴルフ〜続・ゴルファーのスピリット」 鈴木康之著/ゴルフダイジェスト新書  2009年発行





新たなゴルフプレー「Game54」とはどんなゲームか?!

新たなゴルフプレー「Game54」とはどんなゲームか?!

❖ ゴルフ業界では今後プレー人口が減少すると予想され、JGA、GJTOなど各団体がその対策に取り組んでいる。このほどプレー人口の増加に期待を抱かせる新たなプレースタイルが発表させた。すでに各スポーツ紙各雑誌に紹介されたので、読んだ方も多いだろう。その内容と課題について取り上げてみたい。

❖ 新たなプレースタイル「Game54」を提案しているのは、一般社団法人ワンオンゴルフ協会(代表理事吉川丈雄)だ。まず内容を紹介すると、通常のゴルフ場18ホールを使って、すべてのコースをショートコースとしてプレーするもの。18ホールの内4つのショートコースはそのまま使用、ミドルコースはバックティから250ヤードのIP地点からティショット、4つのロングコースはバックティから250ヤード+220ヤードのIP地点からティショットする。ロングホールの第2IP地点がハザードなら距離を調整する。

❖ 以上がプレーの概要だが、当協会ではこの「Game54」は特許出願中という。プレー時間は9ホール1時間15分程度、18ホールで2時間半程度となるので、通常のプレーが4時間半から5時間とみると約半分の時間で回るという利点がある。今後当協会では当プレーを独占的に管理し、初年度全国80コース、2年以降は150コース、3年目には300コースに導入されるを目指している。


                  写真:ワンオンゴルフ協会提供

❖ この「Game54」を利用するゴルフ場は、当協会に加盟する必要がある(入会金10万円、年会費1万5000円)。加盟するとそのゴルフ場の「Game54」専用スコアカード(有料)、そのほか特性ティーマークやGame54ネーム入りゴルフホールなど無償提供されるという。さてゴルフ場がどんな関心を寄せるか、興味のあるところである。

❖ 「Game54」は、誰でも気楽にゴルフをはじめられ、ゲームの面白さはそのままに、ゴルフの魅力や体力、年齢を問わず、プレーできる新しいプレースタイルといわれる。ゴルフを始めた人やそろそろゴルフがしんどくなってきたというシニアクラス、あるいはショートゲームを磨こうとするゴルファーには、料金も普通のリーズナブルに設定されるので適しているかもしれない。

❖ 課題は、このゲームを利用するゴルフ場がどう関心をよせるかに焦点が集まることにだろう。利用するなら、各ゴルフ場も一般のゴルファーに迷惑がかからぬよう早朝や薄暮の時間に設定するだろうから利用率が限られてくる。客単価も安くなるので、ゴルフ場のPRとか、「Game54」コンペなどを設定して、夏期や冬期のゴルフ場利用促進に利用するなど考えられるが、限定されるような気がする。それがゴルファーの減少に有効な手段となるかどうか大いに注目を引くところである。

❖ 全国300ものゴルフ場が取り入れるとなると、1つのブームになる可能性もあるが、その反面、上述したゴルフ場の受け止め方になると、ブームまでには行きつかない。ひとえにワンオンゴルフ協会の活動にかかっているといえようか。成功してほしいものだが・・。

注1 写真ほか資料はワンオンゴルフ協会提供のの発表資料より
注2 IP=(intercross-section Point)ティーイングラウンドとグリーンを結ぶ地点。
    ティーイングラウンドより250ヤードの地点をIP地点という。
   ゴルフコースで、フェアウエイの真ん中あたりに旗が立っているのをよく
   見かける。そこがIP地点。